26歳と6ヶ月の幸福論
2009年4月4日 動画たとえば、「洗濯物を干していた自分」と「北朝鮮の衛星のニュースをみた自分」との間には、いろんなものが横たわってるとおもう。
「静かに降る雨に気づかなかった自分」とか「歯磨き粉を、みどり色の歯ブラシにのせる自分」とか。
でも、なんだか自分ばかりの休日というのもつまらないので、『スカーフェイス』をみてみたら、『The World is Yours』なんて言葉が、流れる広告と飛行船。
シニカルできれいで、うっとりする。喉がつかれたときの空と恍惚。
けど、トニーモンタナにはなりたくない。いまいち理解できない。
だから、彼の激情を、ただじっと無感動にみつめる自分。
そんなわけで、気づいたらまた、自分ばかりのトニーモンタナと自分。
いまの幸福感が、この先の幸福までつながっているかなんてわかりません。
いまの絶望感が、この先の絶望までつながっているかなんてわかりません。
そんなのほんとじゃない気がする。
転落に至る道筋も、幸福に至る道筋も、媒体のなかだけ。
瞬間、瞬間で浮かんでは消える幸福感も、ふしあわせな気持ちも、それをつくりだす現実認識自体は、時系列では並べられるものなんだろうけれど。その幸福感とふしあわせな気持ちを作り出したものが、これからの幸福と不幸せにつながっているかは別問題だとおもう。
もし幸福かどうか決めるのが自分なら、幸福は絶対的なものだとおもうけれど、
たぶん、実際には相対的なものさしと、絶対的なものさしを使い分けてるような気がする
幸福の判断が現実認識に基づくなら、認識から零れていくものがある時点で、幸福を感じるシステムは欠陥だらけ。
だから、概念を整理して、変な道路をつくるまえに、概念で切り取られないものについて考えてみて、すこし抵抗してみる。とりあえず、わすれそうなものを拾いあげてみている最近。
実際には、「幸せを感じる自分」と「その先の絶望感」の間にも、たくさんの余計なものが転がっているのに。ごろごろと大きな節くれだったサイズの現実認識が目詰まりをおこすのに、文字で切り取れない微細な現実が、気づかないうちに零れていく、さらさらと流れるみたいに、ぽたぽたと音もたてずに。
自分と誰かにとって大切で、他の人にとってはどうでもいいこと、もしくは忘れちゃうこと。
電話で話していて、意味なく靴下脱いだこと、クリームブリュレつくったのに、プリンおいしかったよといわれること。
それだって大きすぎるのに、いつかわすれてしまうけど、たぶん、それでいいのだとおもう。
えんぴつだけで書きたいならそれでもいいけれど、絵の具もクレヨンもあるのです。
黄色も、みどりも、桜色も、青も赤も。もっとずっと深い色も、もっとずっと透明な色も。
それだけじゃなく、だれかが落としたまつげや、指紋だって。
そんな安っぽいメタファー、。
そして、きっと明日になったら後悔してるんだろうね、この日記書いたこと。
ここから、どこかへ。北朝鮮のミサイルみたいな衛星。
追記
もし幸福が絶対的なら、格差はあったって問題ないんじゃないかとおもう。
むしろ問題は、必要最低限の生活を営むための豊かさが保障されることであって、
格差は二の次なのか。とおもう
格差を責めるのは、相対的に幸福をとらえてる人なのかも。
お金持ちがいてもいい。でも、貧困はなくなるべきだとおもう。
そのための努力は評価されるべきだとおもう。
失業時のセーフティーネットを拡大する改正雇用保険法が3月31日から施行されたよね。
まだまだ、これからなんだろうけど、ちょっといい感じ。
「静かに降る雨に気づかなかった自分」とか「歯磨き粉を、みどり色の歯ブラシにのせる自分」とか。
でも、なんだか自分ばかりの休日というのもつまらないので、『スカーフェイス』をみてみたら、『The World is Yours』なんて言葉が、流れる広告と飛行船。
シニカルできれいで、うっとりする。喉がつかれたときの空と恍惚。
けど、トニーモンタナにはなりたくない。いまいち理解できない。
だから、彼の激情を、ただじっと無感動にみつめる自分。
そんなわけで、気づいたらまた、自分ばかりのトニーモンタナと自分。
いまの幸福感が、この先の幸福までつながっているかなんてわかりません。
いまの絶望感が、この先の絶望までつながっているかなんてわかりません。
そんなのほんとじゃない気がする。
転落に至る道筋も、幸福に至る道筋も、媒体のなかだけ。
瞬間、瞬間で浮かんでは消える幸福感も、ふしあわせな気持ちも、それをつくりだす現実認識自体は、時系列では並べられるものなんだろうけれど。その幸福感とふしあわせな気持ちを作り出したものが、これからの幸福と不幸せにつながっているかは別問題だとおもう。
もし幸福かどうか決めるのが自分なら、幸福は絶対的なものだとおもうけれど、
たぶん、実際には相対的なものさしと、絶対的なものさしを使い分けてるような気がする
幸福の判断が現実認識に基づくなら、認識から零れていくものがある時点で、幸福を感じるシステムは欠陥だらけ。
だから、概念を整理して、変な道路をつくるまえに、概念で切り取られないものについて考えてみて、すこし抵抗してみる。とりあえず、わすれそうなものを拾いあげてみている最近。
実際には、「幸せを感じる自分」と「その先の絶望感」の間にも、たくさんの余計なものが転がっているのに。ごろごろと大きな節くれだったサイズの現実認識が目詰まりをおこすのに、文字で切り取れない微細な現実が、気づかないうちに零れていく、さらさらと流れるみたいに、ぽたぽたと音もたてずに。
自分と誰かにとって大切で、他の人にとってはどうでもいいこと、もしくは忘れちゃうこと。
電話で話していて、意味なく靴下脱いだこと、クリームブリュレつくったのに、プリンおいしかったよといわれること。
それだって大きすぎるのに、いつかわすれてしまうけど、たぶん、それでいいのだとおもう。
えんぴつだけで書きたいならそれでもいいけれど、絵の具もクレヨンもあるのです。
黄色も、みどりも、桜色も、青も赤も。もっとずっと深い色も、もっとずっと透明な色も。
それだけじゃなく、だれかが落としたまつげや、指紋だって。
そんな安っぽいメタファー、。
そして、きっと明日になったら後悔してるんだろうね、この日記書いたこと。
ここから、どこかへ。北朝鮮のミサイルみたいな衛星。
追記
もし幸福が絶対的なら、格差はあったって問題ないんじゃないかとおもう。
むしろ問題は、必要最低限の生活を営むための豊かさが保障されることであって、
格差は二の次なのか。とおもう
格差を責めるのは、相対的に幸福をとらえてる人なのかも。
お金持ちがいてもいい。でも、貧困はなくなるべきだとおもう。
そのための努力は評価されるべきだとおもう。
失業時のセーフティーネットを拡大する改正雇用保険法が3月31日から施行されたよね。
まだまだ、これからなんだろうけど、ちょっといい感じ。
コメント