Here Should Be My Home

2009年1月24日 日常
きょう、人生ではじめて、歯ブラシをくわえて、外にでました。
鍵をかけ、その鍵がきちんとしまっているかまで、ちゃんと確認したのです。

みなさん、生活のけじめはしっかりつけていきましょう。

そんなこんなで、No Ageの「Nouns」ってアルバムがいいです。

トレイル・オブ・デッドみたいな路線、つまり、シューゲイザーを90年代のUSインディーロック(Built To SpillとかスーパーチャンクとかModest Mouseとか、Guided By Voicesとか。がちがちじゃない、ゆるゆるでローファイな、ヒップホップ通過後のハードコア)でもって解釈してこさえたもんに、Animal Collectiveみたいなフォークロアっぽさとかをぶちこんだ感じ。

っていう、印象論。

二ューゲイザーとかいうみたいです。ネオ・シューゲイザーとはちがうんでしょうか。

シューゲイザーがすごかったのは、たぶん、ノイズの気持ちよさとか美しさとかを、とてもわかりやすい形で再提示したことだったんじゃないかなぁ、とおもう。

欲望の対象として、ノイズを再発見した人たちは、それを再生産したり加工したりする。→
聞いてる人は、同じアルバムを一年も聴き続けるとどうしても飽きてしまう。→けど、好きになってしまった人は、ノイズの気持ちよさがやっぱ忘れられず、再生産されたり、加工されたりしたものを求めたりする。→
だんだん、その結果として、轟音バンドがめずらしくない状況になる。そんなこんなで、方法論の応用と受け手の拡大。Plastic Treeとかみたいに、わりと特殊なビジュアル系がいるのも、結局はそういう背景(受け皿)があるからだとおもう。

その後、Ulrich Schnauss(エレクトロ・シューゲイザーと呼ばれてました。いろんなシューゲイザーがあるね。)が出てきて、きもちよくてきれいなんだけど、安全で物足りなくて。
かといって、マイブラの音楽が好き過ぎて影響から脱し切れなかった人たちがつくった、ほとんどモノマネみたいになってしまった代物を聴いて、そのオマージュに愛は感じるけど、既存の快感原則に依存していて、「オルタナ」ではないんだろうなって状態に、不満を感じていた欲深いシューゲイザー好きにおすすめです。

過剰で、聴いてて、景色かわります。
それでいて、ゆるゆるなときも、熱いときもあってすばらしいです。
脳がざわざわして、醒める感じ。

Broken Social Sceneをはじめて聴いたときのようなワクワク感がありました。
音量気をつけないと、繰り返し聴いたら、耳やられます、たぶん。

出張から帰ってきた。昨日だけど。

今日は、白菜のコールスローと、マッシュポテトつくって、お別れ会に行ってきた。
ベジタリアンを考慮して、つくったつもりだったのに。マッシュポテトは売れず。
塩いれすぎたもんな、とおもう。

昼間、いい天気で希望しかないわ、いや、未来はキラキラですわ。と楽観模様だったのに。

現在、深夜でうぬぬである。いかんぜよ。

そらいかん。と、桂枝雀の文庫本かいました。いいですね。だいすきです、代書屋での松本留五郎。
道具屋さんは、そらなかなか、誰がみても立派に、これこそギブツだというようなギブツです。というシーンがすきです。

ここだけのはなし、すでんいしびさらそ。
でも、現状位置からはなれず。うごかず。

に吐いた言葉が、落語みたいにおもしろけりゃいいのに。

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