バベル

2008年12月30日 映画

『バベルの塔』
ノアの大洪水後、人々が築き始めた天に達するような高さの塔。神は人間の自己神格化の傲慢を憎み、人々の言葉を混乱させ、その工事を中止させたという。



小学校5年生の時だったとおもう。どうしてそんな話になったのかわからないけれど、クラスで「怒り」について話し合うことがあった。みんなで「人が怒るのはなぜだろう」ということを改めて考えることになった。当然、「どんな時に自分や他人が怒るのか」について考えざるをえなくなる。

でも、それぞれに語る怒る理由はてんでばらばらだった。思い通りにいかない、ってのが多かったとおもう。共通の理由なんて見つからないような気がした。それでも最後に、担任の先生が提示した一つの結論は、「わかってほしい人にわかってもらえないときに怒りが生まれることが多い」ってことだった。

きっと、その結論に至るようにみんなの意見をすこしは操作していたとおもう。それでも、怒りの原因すべてが誤解や無理解じゃないにしても、大部分はそうじゃないだろうかと今もおもうことが多い。

伝えようとして言葉や身振り、行動に表してみても、伝わらないことなんていくらでもある。
だから、伝えるのをあきらめたり、伝えること自体に意味がないとおもったりして、そのために自分のための理由や他人のための理由を持ち出したりする。

『バベル』には、「誤解」や「無理解」がたくさんある。なんとなく予想だけど、テーマを決めて物語を構築したというよりも、その時の監督の実感として、撮りたいものを集めたときに、それをまとめる手がかりが「誤解」や「無理解」だったんだとおもう。

日本、モロッコ、メキシコが舞台にして、4つの物語が進んでいく。耳の聞こえない女子高生と父親、モロッコを旅する夫婦、山羊使いの兄弟、乳母と二人の子供。それぞれに、親と子供の物語を内包している。でも、それは永久的に一時的に誰かが欠けている。仕事で忙しい父親と、この世にいない母親、亡くなった子、両親。兄弟の話については欠けているメンバーはいないけれど、事件が起こったのは父親がいないときだった。この映画が提示したかった一つの問いは「どうして子供たちのそばを離れたんだ」ってことだとおもう。

それから、無理解や誤解が横たわっているのは、世代間の差だけじゃない。文化や人種、言葉や感覚(聴覚)の違いの間にもあって、そのためにメキシコとモロッコの物語があるような気もする。

日本の描写については否定的な意見が多いようだけど、そういううまく描けていない部分を差し引いても、見る価値があるとおもう。映画を見たあとで責任転嫁したくなる気持ちもわかるけど、見る価値を見出せないのは映画のせいだけじゃなくて、見た人のせいでもあるとおもう。
どんなにくだらない映画でも、楽しめる人はいるし、どんなに丁寧につくられた映画だって見るに値しないと切り捨てる人はいるし、その逆だってありえる。そもそも、くだらないも丁寧も、素晴らしいも自分のものさしでしかないんだから。

それに、性描写や暴力表現についても、それがあること自体、もしくはその描き方に不快感を得た人がいることはいいことだとおもう。それらは物語に必要な描写として呼び込んだ場面であって、現実じゃない。不快感を喚起すること自体を目的に描いてはいないだろうけど、それが不快感を与えられるくらい現実味を帯びたものなら、描き方として成功しているといえるように思う。不快感ゼロの完全娯楽作品を望んでて、この映画を選んだ人がいたとしたなら可哀相だけど。

個人的には、ビルから見下ろすシーンがあって、印象的だった。天に届きそうな高さのビル。神様が、バベルの塔を建てるのを阻止するために、うまく意思疎通できないように言葉を分けたって話だったとおもうけど、それからテクノロジーが進化して、それこそ、バベルの塔みたいに高い建物を建てられるのに、無理解や誤解の問題は永久になくなりそうにないし、だからこそ、無理解や誤解に起因する傲慢さもなくならないとおもう。

4つのなかでは、兄弟の話が一番すき。

イニャリトゥは3作品みたけど、全部重たい。『21グラム』はもう一度見たいと思えないくらい重いし望みもない、『アモーレス・ペロス』も重い。そうじゃないだろ、とか。なんでそんなことするんだろ、とか。そういうふうに思いながら、登場人物の行く末をみつめることが多いような気がする。むしろ、そういうふうに倫理観に訴える作品を作る人だと思うから、俺はこの人の作品は、見る価値があるとおもうし、これからも見たいなとおもう。

コメント

お気に入り日記の更新

最新のコメント

この日記について

日記内を検索