『おくりびと』は、滝田洋二郎が監督を務めた2008年の日本映画。

主演の本木雅弘が、青木新門・著『納棺夫日記』を読んで感銘を受け、映画化を監督に要望したことによって映画化された(松竹)。映画公開に先立って、小学館でさそうあきらにより漫画化されている。


名古屋駅で地下鉄を降りて、映画館にたどりつく道のりで、何人くらいの人とすれ違うんだろうか。もし200人以上にすれちがっていれば、すくなくとも、そのうちの一人は一年以内に死んでいることになる。名古屋市の死亡数は17729で、人口は200万以上だから、そういう計算になるよね、たぶん。そんでもって、一年以内に死ぬのは自分かもしれないってことだって、全然考えられるとおもう。誰かにとって、すれ違った200人のひとりかもしれないから。

でも、普段は、そんなふうにあんま考えない。自分と死とは無関係だ。統計をみても、ただ、顔も知らない人が17729人死んだんだっておもうだけ。
すこしつめたいかもしれないけど、毎日、自分と同じ街で48人の「誰か」が死んでる実感はない。
夜、歩いていると、灯りのついてる部屋と、ついていない部屋があるけど。きっと、それについて何も考えないのと似てるような気がする。その数で、感情は揺れない。

ただ、17729人が死んで終わりというわけじゃなくて、そのひとりひとりの死や不在が、周りの人間を動かしたり、感情にバイアスをかけたりする、程度の差はあるけど。
誰かの死に直面して、人は、泣いたり笑ったり怒ったりする。

納棺士というのも、その中の一人だ。でも、かなり特殊だとおもう。彼らは、だれかの死を無責任に受け流すことができない。死人と関わることを仕事としているからだ。その関わりをなくせば、仕事を失うだけ。別の仕事しなければ、食べることができずに空腹になるだけ。
だから、食べるために仕事をする。

この映画を通して、観客は、顔の見えていなかった、自分とは無関係な人々の死を見つめることになる。納棺士の仕事を通じて、無関係な人々の死に接していくなかで、顔の見えていなかった人たちと関係を持つことになる。それは、本当のところ、ただの「見る」と「見られる」という関係だけど。たぶん、その過程で、いままで立ち会ってきた死だけじゃなく、関係のある人たちの死や関係のあった人たちの死を、それぞれの場面に投影せざるをえなくなるとおもう。

だから、変な話だけど、死体を通して、つまり、死を通して、自分たちの関係性を問い直すことになる。だから、この映画を見ることは、現在につながることだとおもう。

死ぬことを問い直すことなんて、毎日しなくてもいいとおもうし。
どうしても重くるしい感じになってしまうとおもうけど、たまにはいいとおもう

全然ユーモアのかけらもない文章になってしまいましたが、映画は独特のユーモアがあって、とても面白かったです。おくりかたにも美学があって、みっともない、って感じることがあるんだろうね。きっと。

追記
涙をながすと、鼻水がたれそうになるのは、目と鼻がつながってるかららしいです。


コメント

nophoto
しすたー
2008年11月3日23:44

ある意味。職業上、人の死を見すぎて。
無感になってしまいがち…
実際に身内が亡くなった時。
ワシはどうなるのか?人らしぃ感情は出てくるのか?
チョイと不安になるょ。


31歳
2008年11月4日18:53

そうだよね、きっと。
わかる気がする。

でも、いくら人の死に慣れていても、身内が死んだときは、悲しくなると思うな。
最初、なにも感じなかったとしても、むしろ時間が経つにつれて、その人がいない(いたときのこと)ことを考えたりすることがあるんじゃないかな。

起こってみないとわからないよね。でも人らしい感情は人それぞれだし。
しすたーの接し方も「人らしぃ」のかもしれないよ。
(毎回、同じ重みで悲しみ感じてたら身がもたないもんね。)

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