小休止10

2008年7月21日
眠れない。

なんでかわからんけど。

明日、空港に行かなきゃいけないからか。

なんとなく、おもったのだけど、誰かと関係を解消したいとおもったときに、相談する相手をえらぶとき、その人にとって、同情的というか気の合う人を選ぶもんじゃないだろうか。
たぶん、まだうまく固まっていない自分の意思を「世間的な評価」によって補強したいだけなのだとおもう。

だから、相手に不満をもたれたときに、自分のことを知らない人間や、自分へに対してマイナスな評価を持っている人、その関係について、ある程度意見を誘導できるような人間を、相談相手に設定している時点で、その相手は自分との別れを望んでいるんじゃないだろうか。

今回、おもったのは、ひとりぼっちより待ってるほうがずっといいっていうのは、相手が心変わりする可能性があるときだけだってことだ。

決断を先延ばしにされて、もんもん悩む期間を味あわされるくらいなら、関係の解消に肯定的な人にどんどん相談してもらって、別れに至ったほうが楽だった気がする。

そんなふうに人間はコントロールできないだろうし、わかっていても、事態が好転するんじゃないかなぁ、って期待しちゃうもんだろうけど。つい2日前の自分みたいに。

なんで一人のときのほうが、文章書きたくなるんだろうな。

それと、快楽と政治について、おもったこと。

快楽をつきつめると、人間は死ぬ。っていうのは、ドラッグを例にあげてみればわかりやすい。腹上死でもいいけど。

とにかく、人間は動物だ。だから、自然の一部でもある。季節が移りかわるみたいに、快楽の矢印もぐるぐるまわるだけというか、その量が上下(増減)するだけで、その上下っていうのも、上に突き抜けると体が耐え切れなくて死ぬし、下に突き抜けるほどつまらないと死にたくなるものだとおもう。

で、たぶん、そういう時にいつかは感じる、快楽へのニヒリズム、虚無感。
ダンスフロアで、ラブホテルで、それから、長年連れ添った夫婦の寝室で起こる現象。「飽きる」の最上級。

そういう時、関係性の外部に目がいくもんだとおもう。
つまり、その関係性で得られる快楽が頭うちになるんだから、別の関係性でその欲求不満を解消しようとすんのだ。

でも、快楽自体にニヒリズムを感じたら、たとえば、映画をみる快楽、小説を読む快楽、音楽を聴く快楽、それ自体に、虚無感を感じたら。

たぶん、それを提供する社会自体に責任転嫁して、変化させることに意味を見出そうとするとおもう。

その結果、社会の変化に対して、自分のコントロールを加味しようとする。つまり、政治に関わろうとする。人間が政治的になるのは、動物として得られる、つまり身体で感じる快楽に対するニヒリズムがあるからじゃないだろうか。でも、そういう論理を支えられるのは、「生活」がすっぽり抜けているからだとおもうけど。

政治も快楽も、本当は生活がつないでいるような気がするのだ。

って、なにがいいたいのかわかんないけど。

飽きたりなんかしたとき、って「生活」を向上させたらいいんではないかとおもうわけです。それにも、ニヒリズムはついてまわってくるけど、生活なんだから、それをしなきゃ生きていけないんだから、いくら空しく感じても、どうせ生活はするはめになるもんな。

でも、生活も政治と切り離せないし、便宜的に定義で行動が分類されるだけで、まったくの別物じゃないから、やっかいなんだろうなぁ。

つい2、3年前まで、たくさんの人を幸せにしたいとか、貧乏な国の映像をみて同情的になってなにか直接的な行動を起こさなきゃみたいな、甚だ、ヒロイックな考えを持っていたけど。

その考えに、自分たちの生活が抜けていれば、かなり不幸なことだとおもう。

いまは、せいぜいに自分の生活の中で、まわりのしあわせに、すこしだけ貢献できればそれでいいやとおもう。それ以上は無理だとおもって諦めているのは、開き直りか。
遠くの人には、出来る範囲で、たまになにかすればいいとおもう。

図々しくなったせいか。もしくは、不満が減ったからなのかもしれないけど。

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