ここにはいない

2008年7月4日
うそだよ。  

 この前、彼女のお母さんが死んだ。彼女は、そのことについてベッドでこう表現してくれた。「胸毛をむしる思い」だって。彼女によると、それはもう、強制されて無理やりむしらされるような思いらしい。
 それって悲しいんだろうか。すくなくとも彼女の胸にはむしるような毛がない。  
 彼女は、レシートの整理をしながら泣いたり、テレビのリモコンをにぎりしめて泣いたり、苺ヨーグルトをプラスチックのスプーンですくったまんま、手を止めて泣いたりする。そんなときはやっぱり、彼女がカーペットの上に、ヨーグルトをこぼさないか心配になる。

 「あのさ、泣いてもいいけど、ヨーグルトこぼさないでね。
        そのカーペット、この前、買ったばっかだしさ」

 返事をしないのも愛嬌のひとつだ、と思う

 午前中、きれいな曲線を描いて目蓋の縁にのせられた黒いアイラインは、午後になると、涙で縒れていた。西から射す光で影を背負いながら、小刻みに震える頬をこちらに向けて、小さな唇で透明なスプーンをほおばる。背中を丸めたままの彼女がみつめるテレビの中では、フリーキックで点を決めた選手が、うねるように沸き立つファンの歓声と興奮を背景に うれしそうな顔でグラウンドを走っていた。

 「どこかに行こう」

 「行きたくない、雨が降ってるし。」

 「そうだね、家の中がいい。」

  
 それほどぼくはきみのことを夢にみた

それほどぼくは歩き

それほどぼくは話し

それほどぼくは君の影を愛した

もうきみについては

なんにもぼくにのこってないくらいに

あとはただぼくが

たくさんの影のなかの

影となるばかりだ

影の百倍も影となるばかりだ

この影は立ちかえり

また立ちかえることだろう

日に照らされた

きみの生活の中に

『最後の詩』  ロベール・デスノス

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